2008年1月12日土曜日

講話会 「主の洗礼」について

 
 1月12日(土)、アルムブルスター師による講話会が、イエズス会教会小聖堂において催されました。概略をお伝えします。
 翌日の典礼で祝われる「主の洗礼」について、教皇様の新著『ナザレのイエズス』を典拠にお話しいただきました。福音箇所はマタイ3章13〜17節です。「主の洗礼」の出来事はすべての福音書記者によっていろいろな仕方で語られています。この「主の洗礼」を教会は復活祭に次いで古くから祝ってきました。
 洗礼の水は、死と、生命とを表します。水は荒々しくすべてを飲み込む、破壊的な力、死を表す反面、生命に無くてはならないものでもあります。また清める力です。洗礼の水に沈み、罪に死に、古い自分に死んだ私たちは、罪を赦されて、全く新しい命をいただきました。洗礼盤は教会の胎なのです。神父様のお話は、水の表象に関しての歴史的・文化的な考察から始まり、洗礼者ヨハネの現れた背景、時代状況を展望しました。この広い視野の中に、「主の洗礼」の本題が輝き出ます。
 罪の無いイエズスが、なぜ洗礼者ヨハネから罪の赦しの洗礼をお受けになったのか。躊躇するヨハネに、イエズスは答えます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」 この「今」は何か決定的な時でした。実際、イエズスはこの時から公のご生活をおはじめになり、それはゴルゴダでの御受難まで、徹底的にご自身を捧げ尽くすことの始まりでした。実にイエズスはすべての人の為に洗礼をお受けになり、すべての人の罪を背負われたのです。「主の洗礼」は、十字架上での血の洗礼の先取りでした。
 イエズスが洗礼をお受けになると、天が開かれました。イエズスこそ、そしてその生涯こそ、神と人間を再び結びつけ、神を私たちにお示しくださるのです。至聖なる三位一体の神の神秘が、はじめて現されたのも、この「主の洗礼」の出来事でした。
 しかし、福音箇所を注意深く読むと、天は「イエズスに向かって」開かれました。聖霊が鳩のようにイエズスに降ってくるのを、イエズスだけが「御覧に」なりました。イエズスが大勢の人々の中で受洗されたとき、周りの人々はその意味を悟りませんでした。イエズスの生涯を通してその神秘は明かされます。また歴史の歩みの中で、教会はその意味を深く知るようになりました。同じように、私たちは自分が洗礼を受けたときに始まった、その命に、時間をかけながら気付かされます。
 私たちはいつでも自分の洗礼の恵みに立ち返って、新しい命に生き始めることができます。私たちは、私たちが受けた洗礼によって、ヨルダン川で洗礼をお受けになる主の傍らに立つ者となりました。主イエズスに倣う者となりました。イエズスが開いた天への道を、洗礼の恵みを通して、日々その命に生かされて、イエズスを仰ぎ見ながら、私たちは歩みます。
 

0 件のコメント: